エミル・ルカの恋愛の進化を、自分は今茲に詳細に述述し批評しやうとは望まない。自分の仕事はそれよりも、此のルカの恋愛進化の三段説は、恰も宗教進化の三段に相当する所があると云ふことを明にしたいのである。蓋し自分の考では、夫の或る古神道者流の神祇観の様なものは、それは全く性慾本能を大に発揮したもので、東西到る処、野蛮未開の種族中に於ける創造神話には皆明にその痕跡を印して居る。否啻に創造神話ばかりでない、婆羅門教にしても、希臘神話にしても、神祇に関する伝説は性慾本位のものが多い。下つて俗神道や、乃至仏教中の天部の信仰に至つては、極端に奔つたものが更に多からう。歓喜天や粛利支天の事は、赤面せずには、紳士淑女の前では口に出されない。これは暗に第一段に止つて居るのである。然かもそれが更に一歩を進めて第二段に入ると、一切の肉慾を無視し、只霊に生きて純粋無垢の精神的生活を営まうとする。即ちそれは厳粛主義であつて、之れを仏教にすると、たとへ小乗教の灰身滅智の甚しきに至らないまでもが、矢張り聖者を気取るのであつて、基督教に於ても中世紀の諸高僧はそれであつた。それが尚は進んで第三段に入つた時に、始めて凡夫本位の宗教となり、喫肉妻帯毫も憚らなくなるので、仏教では吾が親鸞に之れを見、基督教に於てはルーテルに之れを観たのである。然かも双方共に当初はまだ何となく動もすれば中世的臭味を全脱するに至らざるの嫌があつたのを、層一層洗滌し淘汰して、終に純真の霊肉一致に進入しつゝあるものと看たい。略して云へば、之れを吾が国に於ける基督教以前の神仏両教に就いて看るときは、古神道よりして聖道門、聖道門よりして浄土門と進行する所に、恰も恋愛進化の三段があり、宗教進化の三段があると謂つて可なりとするのである。
然り而して今茲に自分が百忙中に小閑を偸んで、特に斯んな事を喋々するのは外でもない。目下吾が国読書界に於て、非常の勢を以て流行して居るらしい賀川豊彦氏の「死線を超えて」や西田天香氏の「懺侮の生活」などに就いて、之れを右の宗教進化並に恋愛進化の上から観たならば、果して如何と云ふことを論じて見たい為である。尚はそれと関連して、暁烏敏氏の著書や、富崎安右衛門氏の述作、さては近く梅原真隆氏の論文、倉田百三氏の創作などをも、広く斟酌して看て行くと、それは一層面白からうと考へる。梅原氏自身は凡そ文化を三種に区別し、その一は聖者的文化で、西田天香氏は之れを標的とし、その二は悪魔的文化で、暁鳥敏氏はそれに安住して居る。而かも執も極端であつて、吾人は須らくその中間を歩むべく、それは第三の凡人的文化であると言はれたのを親しく聴聞したことがある。如何にも面白い。併しそれは用語が斬新なので、頗る鮮明に感じはするが、猶は外道と謂ひ聖道門と謂ひ、浄土門と謂ふのと其事は同じだらうと云へもしやう。