三(それはそれとして梅原氏が、西田天香氏の所謂懺悔奉仕の生)

それはそれとして梅原氏が、西田天香氏の所謂懺悔奉仕の生活を聖者的文化と呼んだのは、よく当つて居る様に思はれる。想ふに西田氏の思想は素より神儒仏耶諸教の粋を抜き集めて作らうとしたものらしく、仏教にも禅宗派もあれば、又真宗派も相応に這入つて居ることは認められる。それは一たび夫の一燈園内の祭壇とも謂ふべき所を窺ふたならば、直ぐ分かると云つた人もある。然かも此等諸教中何が最も傑出して見えるかと云ふと、それはどうしても禅宗であることは掩ひ難い。現に西田氏は多年南禅寺で南針軒老漢の手厚いお世話に成つたのだと聞いてゐる。而してその上に基督教が加味されたとすれば、それは第十三四世紀頃に於ける、後年宗教改革の先駆者たる聖者たちの生活であつたらうと思ふ。マウ少し具体的に云へば、禅宗方面では桃水和尚であり、基督教方面では聖フランシスなどが、その私淑するところの規範であらう。而してこの東西両聖者の事は、実に宮崎氏の近頃熱心に吾儕後昆に招介して奥れて居る所である。否宮崎氏は啻に先哲の遺風を宣揚すべく著述に勤むのみならず、自身にも亦親しく至極の簡易生活を営んでゐるといふことは、誰人も御承知であらう。太だ豪いと申さう。

併し桃水和尚の乞食行脚は、素是れ奇道であつて世俗を戒め、時風を矯めるの功はあらうが、決して万人の皆履行すべき常道ではない。その大小の行跡一々咀嚼して看ると、其処には言ふに言はれない津々たる妙味否霊味がある。然かもそれは只管霊化に努めて、霊肉一致の自然の境界でない。聖フランシスも亦同じくさうである。勿論それは好んで貧に居つたけれども、徒に禁慾主義を墨守するものではなかった。乃ち孤独な僧院裏の黙想的閑生涯を望まず、諸弟子皆各々十字街頭に立つて、博愛を施し、その所持するものは悉く放棄して顧みず、而かも又同胞人士の慈悲に由つて、自ら生きて行くべしだと云つてるる所は、消極的ならざる積極的禁慾主義とでも謂へやう。十字軍にも加入して、戦争最中回教徒の大本営に詣で、土耳其皇帝の前で臆面もなく、堂々一大説教を試みたとも伝へられて居り、臨終の床にも、太陽の頌歌を自ら作つて高唱しつゝ、徐に微笑して暝目したと云はれてゐる。即ちその信仰の根本はどこ迄も熱烈なる生の感激であつた。然かもそれは基督の生涯をその侭地上に移した生活振りである。従つて総て悲めるものゝ同情者であり慰撫者であつたが、原始的基督教徒一般の風を伝へて、肉 体を軽視し、婦人を貶斥する傾は、未だ之れを免るに至らず。一面性交の欲望に打ち克つと共に、精神的愛恋も亦その後のダンテなどの様には、高調されてゐない。但しその己を恋ひ慕ふ妙齢の処女クララを、厳然と教訓した語句の中には、早く恋愛浄化の曙光は閃いて居る。自分はエミル・ルカが之れを恋愛進化の第二段中に置いて叙述したのを有理と認める。知らず西田氏の婦人観は果して如何。