斯様な次第であるから、苟くも文化生活の事を喋々する者は、又必ず先づ性慾問題に留意すベく、性慾問題に留意する者は、固より所謂性慾の何たるかを一応明にして置く必要がある。ところが実際は這の性慾なるものが分つた様で分らないから大に困る。借問す所謂性慾とは本来何者ぞと云つたらば、何とお答へなさる?
性慾は之れを綺麗に申せば、恋である、恋愛であると申される人も多々あらう。併しさうするとその又恋なり恋愛なりは何であるが、同じく分つだ様で分らないから困る。旧来本邦固有の歌学歌道の上では、和歌の題詠を分類して、春夏秋冬の四季と雑とするが、その雑詠の中には、詳に言ふと神祗釈教恋無常、それから真に雑多の雑詠があることは申す迄むなからう。而して二十一代集いづれもの勅撰は勿論、一家一私人の歌集を披見しても、就中恋歌の最も多い事は、誰人も夙に御承知であらう。然るところが自分は頃日偶々夫の「古今著聞集」を手にした際に、フト気付いた事は、此の全部二十巻もある、相応に豊富の大小説話集には、神祗釈教に始つて草木蟲魚禽獣まで、総計二十項を設けてあるにも拘らず、さしも人生の大部分を占め たる筈の恋はない。而して恋の代に第八項をば好色と題してゐることを見て驚いた。好色は色好みであり、俗語で平たく云へば助倍である。知らず恋は全く助倍であつて、而して性慾亦固より助倍の近代的雅訓たるに外ならないものと看て好からうか?
否これは西洋の語辞にしても、同じく分つた様で分らない。恋愛は通例は英語ラヴの訳名として居る。然かもラヴ即ち性慾とはよも云へなからう。尤も学者に由つては、或はラヴとアツフェクーシヨンとを区別し、ラヴは熱愛で、アツフェクシヨンは情愛ぐらゐの所だと云ふ人もある。此の場合ではラヴは稍々性慾に近い様ではあるがそれでも違ふ。性慾と謂ふのは寧ろ通例情慾或は肉慾と呼んで居るもので、英語ではセキジユアル・パツシヨンと云ふものであらう。詰まり良性相接触し相抱擁し相婚交したいと云ふ燃えるが如き情火である。それは極露骨に言へば、強者が弱者を制御し屈伏させて、放射することを熱望する激情で、弱者の方では服従し降伏して受容するのである。無論弱者にも亦固有の快味があり、或は放射に似た所もないとは云へないので、激情たるには相違ないが、彼と此とは同じ激情にしても、自ら其の間に相違がある。とにかくそれは概言すれば一時的のものであると云つても妨げあるまい。而してその一時の情緒をラヴと云ふとも、解釈せられんことはあるまい。