三(尤も又一方の学者の中には、飽迄もラヴ)

尤も又一方の学者の中には、飽迄もラヴ即ち恋愛を神聖高尚なものと看んことを望み、右の熱烈なる激情とは全然別なるものと看做さんとするものもある。其の説に拠ると、性慾は実に主我的であり自己中心であり、自受用楽である。然るに恋愛の方はこれと反対で愛他的であり他人中心であり、甚しきは滅我献身であつて、性慾は我侭放埒であるに対して恋愛は奉仕的であ。従つて恋愛は固より必ずしも男女異性間にのみ存するものとは限らない。親子兄弟にも十分にある。漢籍の字典には恋は係慕也とあつて「漢書」には兄弟相恋の句がある。勿論それは毫も相犯さうなど云ふ類のものではない。併し更に一歩を進めて論究すると凡そ恋愛の真に恋愛たり愛情たるものは、母の子に対する愛である、母の子に対する愛情ほど至誠至純にして而かも底止する所を知らざるものはない。是れ実に神とか仏とかの大慈大悲に髣髴たるものであると云ふ風に説いて、愈々その神聖高尚なる所を明にしやうとするらしい。

自分とても亦総じて愛情の中で最も美しいものは母の子に対するもので、実に天真爛漫と謂つて可なりと信ずる。併しそれで以て一切の愛情即ち恋愛は、皆此の母の子に対する愛より派生すると云ふ事には、一寸急に同意し難い。母の子に対する愛も、亦母といふ女性に基づくものであれば、それは一種の性慾には違ひない様ではあるが、これは学問上別にセキジユアル・イ ンステインクト即ち性的本能なる概括的名目を立て、その下に彼も此も悉く一所に包含せしめることは出来ても、母愛やがて女子の性慾とは曰ひ難からうと考へるのである。

但し更に新に別解を設けて、母愛もその根本に遡尋すれば、矢張り一種の服従降服の性質を帯びたもので、性欲の激情に於ても弱者として服従降伏の位置に在るのと、全く一体であると云ふならば、一応は聞えんでもない。然かも此の新解は決して俄拵へのものとは看て貰ひたくない。昔から東洋では婦人の道は三従にありとしてゐる。幼にしては親に従ひ、嫁しては夫に従ひ、老いては子に従ふと云ふのがそれで、是れは今日の新しい人々の眼には、そんな卑屈千万な事はない、婦人は固より決して奴隷ではない、そんな束縛からは一日も連に解放せらるベき筈だと絶叫して居る様に見受けるが、併し西洋にても亦夫の愛蘭で目下女傑の一人として最も有名である、ドクトル・アラベラ・ケニーレー女史などは、暗にエレン・ケー女史の向ふを張つて、頻りに男女自ら其の性を異にし、其の徳を別にしてこそ、人生は完備し、社会は進歩する筈で、エレン・ケー女史始め所謂婦人解放、男女同権論者の言ふ如くならば、折角の性別は茲処に滅尽して仕舞つて、太だ詰らないものに成り了はる。婦性婦徳はどこ迄も服従にあり、母愛にありと云つて居る。此のケニーレー女史は最新刊の「男女同権論と性の滅尽」といふ一部の書物が、一昨年倫敦のフンヰン会社から出て居る。自分は逸早くそれを購読して見たが、無論論旨不徹底と判じて共鳴はしない。然かも大に参考にはなつたのである。