此に於て自分は、自分としての文化観を陳ベざるベからざる立場となつた。それに就いて自分は毎々申す通り、由来エレン・ケー女史の所説には左袒するもので、当初教育学上エレン・ケーを率先紹介したのは、斯く言ふ自分であると公言して憚らない。自分は右のアラベラ・レニーレー女史の極端なる保守論、即ち男女儼別的分業論には、固より賛成は出来ない。併し男女両性にそれぞれ分異の長所あり短所のある事は、固より自分も亦夙に承認して居る所で、而し両性各々其の長所を発揮するが当然であると主張もして居る。特に一たびワイニンガーの所説を聴いてからは、如何にもさうだと確信し、只男子だから女子だからと概念的に論じて仕舞はず、寧ろ一々本人の性格上に看て、女性的男子たり男性的女子たらん者は、各々その向き向きの事をするのが妙だらうとも主張して居ることは拙著類を一読せられた方は十分御了解であらう。
然かも今茲には新に所謂一体両性説を探つて、将来文化の促進には男子も女子も共に、固よりその固有の性的本分を発揮すると共に、他の之れに伴随して隠蔽せられ居る異性的元素をも、亦適宜開発したらば更に一層妙だらうと考へるがどんなものだらう。それに就いては毎々申すことではあるが、自分は所謂文化なるものを以て、人生社会生活の進歩に在りとし、該進歩は 固より啻に智力のみに依らず又情緒のみにも拠らず、それは自然の征服と社会組織の改良と而して人格の向上と、三者相待たざるベからずとし、そこで此の文化進歩の三大要素中、先づ自然の征服は男子の力を藉らざるベからざる事が多く、古往今来発明発見は主として男子に属し、偶々キューレー夫人のラヂウム発見の如きは稀有とするが、之に反して人格の向上は、又自分は何はさて措き、同情心の拡大にあるとすると、それは母愛として献身奉仕的である女手の性徳の発揮が大に必要であらうと考へる。ナイチンゲール女史の赤十字の如き博愛事業は、他に其の類が乏しい。一言すれば破壊進取は男子に待つと共に構成保守は女子に待つベし、将来の世界平和は別して女子の尽力に期待しなければならぬ。
然り而して社会組織の改良は、どうしても労働者と資本家と同等同権なりと観る事にあるが如く、又男女共に同等同権なりと観て行かねば出来ず。それは男子に於ける女性の半而、女子に於ける男性の半面を適宜開発し、相互これを承認し尊敬するので、始めて出来やうと云ふのは如何であらう。是れ畢竟男女共に一切の天賦を適宜発揚して行かうといふ考へで、他の兎角圧制束縛乃至滅尽に傾けるものとは別である。
斯う議論が極まると、性慾関係の問題は、皆自然に解決する。女子教育の事や結婚の事は勿論、婦人労働問題、母性保護問題、さては廃娼如何、蓄妾如何より延いて近頃続々現出する強姦姦通、その他所謂貞操蹂躪の訴訟事件なども、それぞれ明答の途が開けやう。さうして始めて文化生活の大半を改良することを望まれるのではなからうか。将来の宗教亦此に意を用ひなけ ればならない。