五(右は単に新刊の「中央仏教」に就いて一瞥しての話)

右は単に新刊の「中央仏教」に就いて一瞥しての話であるが、尚又それと共に新刊の「親鸞主義」が一部手近に在ったので披見した。すると其処には足利浄円さんのアノ人なつかしい筆で、「市場価値と本質価値」といふ短篇がものされてゐるのを目撃した。これは遉に上掲の禅浄両宗の老僧方のとは較べ物にはならない程に、滷が脱けて居るから有難い。否秋野老のは或はそれに近いものとも看ゆるが何分型か陳腐なので、黴臭く聞えるのは致方なからう。足利氏は曰つて居心、人間の価値も市場価値の上では、大臣乞食奥方令嬢女房娘と千差万別であるが、然かも本質の価値を見る時は、執れも皆人間である。斯くて銘々自己の貴い本質を観た時には実に三千世界に二人となく、天上天下唯我独尊である。而して其処に又尽十方無碍光如来の平等な生命が流れて居る。若不生者不取正覚のお言葉は、あらゆるものゝ上に躍動して、摂取不捨の願力から、吾儕人間の本質的価値は恵まれて居り、又やがて価値創作の人間生活が成るのだとすると。要旨は略ぼ此の通りで尽きて居やう。如何にも鮮に最近の所謂文化主義者の主張と、在来の真宗のお説法とを調和して居る。偏に敬服に堪へない。

併し隴を得て蜀を望む人情の上からでは、どうもまだ何となくこれ丈けでは物足らぬ心地もする。否足利さんは成る程更に一歩を進めて、這の本質的価値の創作生活には、常に二個の判然たる眼醒めがなくてはならず、その一は自分の過失を認知する力と、その二は大悲の恵まれる願力を承容する力とだと力説して居られる、此に至つて足利さんの所説は、一層明瞭と成つて、それは又夫の秋野老の所謂達磨禅などの無字一本槍に較べると、遙に肯定的であり積極的である事は、如何にも新時代の宗教として一歩を進めたものだと首肯されるには相違あるまいが、実はそれでもまだ何となく物足らず、矢張り哲学的文化主義者の兎角陥り易い抽象と消極と否定との色彩は、抜けて居ない様に見えてならない。

然り自分も亦二十余年前、仏国留学中、一夕大に感得する所があつて、蹴起忽ち我人人間皆人間の七字の題目を高唱し、帰朝後東西各地に宣説したこともある。併しそれは夫の所謂ヒューマニテーを主眼とするので、本質的でも何でもない。又最近の都鄙諸方面に於ける夏講の席上では、文化主義者の所謂普遍的一般的論理的妥当性は、実に生老病死の四苦に於て之れを見ることが出来ると云つた。然かも之れを救ふの方途は、下らない悟りや涅槃に求めやうとはせず、寧ろ実際的真善美として、科学の進歩に由る自然の征服と、さては社会組織の改造並に同情心の拡張にあると力説した。而して隔世的の極楽往生もさる事ながら、それと同時に自分は寧ろ極楽を斯土に実現する事に努力せんことを勧めたい。乃ち一方には哲学的文化主義も入用であらうが、それよりも生活改善民衆文化の運動が一層必要で、斯くして始めて価値の転換もあり、価値の創作もあり、活きた人間の仕事はあると云った。