六(蓋し今茲に特に斯んな風の事を言ひ出したのは)

蓋し今茲に特に斯んな風の事を言ひ出したのは、実は自分の多年専門として修めて居る教育の事業も、近頃は終に殆ど行詰りと成って困却して居たが、それで教育は生活を本位とし、教習は実地の活動を唯一の正道とし、教育の目的は寧ろヘッド(頭脳)、ハート(心情)、ハンド(手腕)の三Hを培養するにあると云ふ事になつてから、自ら活路が開かれ、更に振起の見込も立ち掛けて来たので、それを資つて我が国旧来の間違つた教育法を改正し、何とかして一人でも活きた人間を拵へたいと思ふと共に、兎角人を死なして仕舞ふ仏教をも亦同じく一新して、活きた人間を作る機関にして見たいと思つたからである。

更に精しく云って見ると、最近米国辺の教育界の一部からプロジェクト・メソードといふ事が唱へられ出して来た。これは確か一昨年の春頃出たブラノム氏の著述などを最初とするが、我が国では自分が昨冬名古屋市で紹介したのなどが早い中であらう。ところで一寸その訳名を下すには困ったが、今は一般に構案的方法と呼び做して居る。然り而して爾来層一層英米諸学者の研究が重って、終に凡そ人間にはザ・センス・オブ・プロブレム(問題の念)、ザ・センス・オブ・プロジェクト(構案の念)並にザ・センス、オブ・レザート(結果の念)三者を発揮するところが 大切である。即ち常に問題を作り、それに対して種々工夫構案を廻し、而かも十分結集を考察して行くが肝要で、其処に価値の創造もあり、活きた人間たる所もあるとすると、児童や青年の教育は須らく此の方針で遣つて行くべしだと云ふ趣意である。

そこで翻つて仏教の方は如何と見ると、例の無念無想を本旨と立てるとすると、宛も之れとは正反対に成ることは免れまい。それではあきらめは附いても、積極的の社会改造や生活改善は出来る見込はない。近頃大阪辺で仏教徒などの連中で、生活改善とやらと云ふものを起された様だが、その主要なる議題が、時間の勵行と共に、葬式の山菓子の廃止や、香奠返しの廃止であるのみを見て、如何にも情なくなつて来た。同じ大阪人でも、而かも婦人連の手で、昨年催した生活改善展覧会などは、遉に之とは同日の談ではなかつたことに注意したい。

仏教の方でも禅の修業には問題あり構案あり結果もあつて、右の三念揃つて居る様だが、その問題が例の古聞では活世界とは交渉が疎であらう。禅堂の生活は或は三Hを旨とするとも有られやうが、その実は頭脳を悪くし、心情を冷にし、手腕を鈍にする非難もある様だ。秋野老が前掲の文中に、坐禅は心中に油断や間隙の無いことを必要とする、円山応挙が名匠と成つたのも、亦全く不断の工夫の報酬であり、霊雲が桃花を看て開悟し、香厳が撃竹を聞いて開悟したのも亦それだとあるのは面白いが、応挙は暫く措く、雲厳両公の頓悟などは活世界とは没交渉だらう。それよりは自分はニユートンが林檎の落ちるのを看て、引力の理法を発明したのを頗る多とする哩。嗚呼死人!嗚呼活人!