今は丁度夜の十時で、置時計の二つ三つ鳴り初めた時に、このあひだ瑞西から貰ふた珍らし い血の様なノイシヤテルの赤酒を瑠璃盃に傾傾傾傾むけつゝ、此の文を書き出した。

京都の今出川御門外の相国寺の仏殿の西の小塔の横には、確か後水尾院天皇かの歯髮塔といふものがある。又荒神口の高等女学校の裏手の清荒神の構内には、何天皇かの胞衣塚があり、下鴨の楼門外の流れの所謂瀬見の小河の河縁には、英照皇大后かの同じく胞衣塚がある。

歯、髮、胞衣、執れも曾て吾が体の一部を為して而して後に剥落したものだが、復た帰らん と云ふのでそれで以てあんなに保存に注意せられるのだらうか?爪も亦同じ理窟だが、何故に それ程には珍重せぬのか知らぬ。それは畢竟不断に延び、截られ、復た延び、復た截られして ゐるから、珍らしくないのだらう。髪も多くは薙髪落飾といふ場合に保存せられるので、理髪 床で毎月一回二回斬髪したからとて、誰もそれを丁寧に保存しはしなからう。歯が格別重んぜ られる様なものも理由がある。

歯、髪、爪は夙に迷信の種となり、愛着の表象となり、色々の場合に咒物として用ひらる。それは野蛮民族中にも一般の風習じやと謂つてよからう。親鸞上人の植髪の尊惨と謂ふのは、粟田口の青蓮院の辺にあつて何だか物の哀れを覚えさすが、併し大和久米寺の久米仙人の木像の歯だけは今猶は仙人の遺物と聞いたら、更に一種執着の恐ろしさを感じはしはしないか!

山陰の薄暗い小さな旧ぼけた祠の前格子に、チョン髷の根元から斬つたのが結び付けられた を見る時は、何となく嫌な恐しい感じがする。自分の小児の時に斬髪令が出て、婦人でも年寄 は斬髪苦しからずといふ事で、只だ一人の老祖母が永年後家のシンボルとして尊重した茶筌髷 を剪まうとされた時は、自分は非常に泣いた事を今に覚えて居る。姦夫見付けた!この不貞腐 れめと、女房の髷を斬去るのも太だ悲惨だが、丑時参りに恨みの黒髪丈長に振り乱だして行く のは、格別に凄絶惨絶だらう。

歯の事を言はう。それは又小児の時の話に成るが、やがて乳歯が抜ける様になると、上顎のな らば床下に、下顎のならば屋上に投けよなど言はれて、色々迷信がましい事をしたが、それは 別に惜しくもなく悲しくもなかつた。只だ齲歯の痛み堪へ難くて歯医者の手に掛けられる時は、更に痛かつたが、一旦抜けさへすればと、例の松井源水流で抜舌類似の地獄的荒療治も、小児ながら辛抱した。併し卅二三歳の頃であつたか、何でも初度の洋行間際に、夕方下の右の方の奥歯がふと欠けて取れた時には、嗚呼斯の歯や復た再び生えずと思つてか、非常に執着を覚えて、手放するに堪ヘず、暫くは何とも言ひ様が無い想がした。是れは同時に吾亦老いを免れずとの悲哀とも解けやう。久しく搖いで居た前歯の幾年経て終に抜けたので、茲に始めて義歯なるものをした時はいよいよ初老の仲間入をした事になつて何となく裏淋しがつた。追々一本抜け、一本抜けて、総入歯となつたら、最早や半分死んだも同然ではなからうか?栄枯盛衰の理は特に歯に於て感じられると謂つてよからう。一説には丈夫な質の人には八十歳過ぎてから、更に二三本三四本の歯が新生するとも言はれるが、稀有な事で、当てにはならぬ。

歯に限つて実に妙な事がある。それは一日一乳歯なる仮りの歯が生え、それが抜けて更に真の 歯の生え初めて、全く揃ふには二十年余も掛かる事は、外の身体機関には無い図であらう、な ぜ歯に限つてそんな変な事が起るのだらう。是れは自分が年來の不審で、誰れも説いて呉れる者が無い。

近頃ふと思ひ付いたのは斯うぢや……歯は実に是れ人生々活の第一の道具で、所謂生の力の 表現し結晶して凝生したるものである。爪牙と謂つて爪も略ぼ同様に取扱はれるが、なかなか歯には及ばない。そこで最初哺乳時は暫く仮の道具で間に合せ置いて、それから追々真正の物 を十分に鍛ひ上げるではなからうか?

此の歯が生の力の表現じやと謂ふ所に、其処に歯に関する一種の深い執着の感じは根さすのであり、又それが呪物として用ひらるゝ訳もあらう。久米仙程の者は死して永く生の力の表現たる歯が木像に植ゑて迄保存せらるゝのは、さもあるべき事と思はれはしないか?

胞衣それは胎生中は一時は生の綱であつたらうが、併し生の力の表現ではない。従つて大切に保存はせられるが、呪物には用ひられぬ。其の点では爪や髪は確に生の力の一部の表現だけあつて、歯に次いで珍重される。

迷ひと謂ふは生の力の発動であり、恨みと謂ふのも生の力の発動である。恋は尚更ら生の力 であることは、必らずしも夫の「人と超人」のタアナの科白を待つて後ちに知る所ではなからう。

魔と謂ふものが果して在るか無いかは知らぬ。併し「ファスト」を読み且つ観て、メフィス トフェレスの変幻出没自在なるに想ひ到らば、魔はありとして可なりだ。メーテリンク一流の蜜蜂暫学を仮つて言はば、魔は天地間に磅磚する生の力の朦朧と顕出し活動するのであらう。魔には屹度歯が強からう、爪が堅からう、而して髪が長くて美しからう。否それだけは足らぬと見えて羽のあるのもある。魔の羽はエンジェルの羽とは素より違ふ。斯く言はゞ従來天狗の異形な次第も略説明が附かう。鼻の大きなのは又何物かの大を表すときへ言はれてゐるではないか。

天狗には由来坊主が成る様だ。鞍馬山には僧正坊、愛宕山には太郎坊、白峰山には相模坊、金毘羅山には金剛坊と、一々諸名山の天狗を小児の時から暗誦してゐたが、京都南禅寺の奧山には又駒僧正と謂ふ天狗がゐるさうな。坊主と天狗、そしてそれが歯、爪、髪、執れも生の力の生々した表現とは太だ面白いではないか?

一体今の僧侶には天狗に成る程の生の力の満々たる者が乏しい。大方其の歯も黄口乳歯の青二才か、さなくば上下総入歯の隠居と云ふ格で、新旧思想の衝突の何のと騒ぎ廻はるのも、全く此の乳歯と入歯との喧嘩だから、張合がない。一番真の爪牙を磨いて天狗的に高山に飛躍してはどうだ。勿論魔道なれば地獄は必定だ。

僧侶の女狂は近頃も亦往々耳にする。併し未だ曾て清玄ほどの者は出ない様だ。○勇などでは楼姫ほどには到らないのだらうか。否畢竟する所は男の方の生の力の不足に帰さう。須らく汝の髪を長くせよ。爪を截る勿れ。而して歯を愈々強くせよと言ひたくなる。久米仙は死んで歯を貽してゐると云ふ事を、よくよく思ふがよい。清玄は一旦桜姫に魅せられてからは、誠に斯くの如くして以つて愈々生の力を発起した。彼れは確に生きながら魔道に落ちたのだ。清玄は芝居で観ても髪や爪は頗る恐ろしい様だ。定めて歯は一層立派なものであつたらう。

葡萄酒の醉ひが醒め掛けたから、是れで擱く、何だか奧歯に物が介つた様だ。歯庠しなどと言ふ人は、即も歯の弱い輩と看るぞ、……ヤ十二時じゃ、子の刻じゃ、真夜中じや、魔が出やう、魔に成らうか?と書いたのは、実は七八年前の旧縞だが、今は早上顎は絶入歯に近い。噫。

(をはり)